金曜日, 9月 14, 2007

■山本玄峰老師の公案について

まごころ四国お遍路の途中で、33番札所雪渓寺を調べていたら、山本玄峰老師に出会うことができました。興味はありましたがよくわかりませんでした。妙心寺の管長さんのことも、龍澤寺のことも初めてです。若い時、お遍路の途中で雪渓寺で行き倒れした。その後33才で雪渓寺の住職となった。管長もやめ、龍澤寺も退いてから、95才で17回目のお遍路をやり遂げた。

山本玄峰老師の提唱(公案部分)
現代の名僧といわれた山本玄峰老師が93才のときの「無門関」提唱での、公案についての部分です。







神渡良平「静寂の時間がいのちの根を養う」から引用

「ここに書いてあることについて、もう少し細かく学問的に、誰それはこう言うたと、いろいろ注釈を集めてお話するといいのじゃけれども、わしの話は直接に根元に・・・・あまり方便をかることはできんからやらない。
 そういうことについて、いろいろな話をすると、そうかしらん、なるほどと、ものの筋が早く知れるかもしれないが、肝心の自性(じしょう)を会得するには,かえって遠くなる。公案、粘提(ねんてい)はみな方便です。
 瓦をもって門を叩くか、石をもって門を叩くかというようなことです。門を叩いて誰を呼び出すかというたら、めいめいの主人公を呼び出す」
 瓦や石という方便はどうでもいいのであって、重要なことは性根玉を引っ張り出すことで、公案を理論的にいろいろ説明していたら、それに拘泥してしまって,かえって自性が見えなくなるというのだ。


「いくら財産があっても、人間の性根玉が狂ったら、何のクソにもなりはせん。どんな結構な宝物があっても家財道具が十分に整ってもおっても、バカ野郎ができればどんな富豪でもつぶれていくんだ」

「家を造るときは、礎石を堅固にすることをおろそかにしちゃいかん。礎石を安定させるためには、下の地盤をつき固めなければならん。その地盤となるのが自然智という地盤だ。この地盤はめいめいの中にある。しかしこれは、たとえ神であろうtp、どうすることもできない。仏でさえも動かすことができない。これが悟りというものだ」
 だから、ただひたすらに坐ることを勧めた。こざかしい人間の頭で考え、ごちゃごちゃ屁理屈を言うことはかえってじゃまになるのだ。
 禅宗は古来から不立文字、すなわち奥義を文字にしないが、それはいくら頭で理解しても仕方がない、骨の髄まで染み通るほどに、体でわかるしかないと思っているからである。

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