金曜日, 4月 06, 2007

■なぜ幕府巡検使が9回も鹿角へ

江戸時代、幕府は将軍の代が替わるたびに目付役を地方に
派遣し監察させた。これを巡見使と呼んだ.

北東北への巡検使の行程は以下の通り
鹿角市の広報に掲載された安村二郎さんのヒストリーふるさと鹿角より

①1633年に第一回目の巡検使から第九回(1838年)まで同じコース。

②秋田領から津軽領へ、さらに海峡を越え松前へ、再び青森~野辺地
 ~南部領の田名部~三沢~八戸~三戸。
 ここからが不思議なこと。海を越え疲労困憊のはずの一行が、
 三戸~二戸~一戸のコースをとらず、来満峠の山越えして鹿角を目指
 してきた。

③鹿角のコースは大まかには、来満峠~大湯~寺坂~錦木塚~松山~
 花輪~田山~浄法寺となりました。
 















何故巡検使が無理をしてまで鹿角に来たのか。

安村二郎さんは
①七十年余りも争論の続いた班境の状況
②長崎御用指定尾去沢銅山の視察  
であった、と述べています。

①は確かに境界をよく視察しております
②は南部の重要な財源ですからそのとおりでしょう

でも、私はそれだけなのかと、ますます疑問に思えてなりません。
江戸時代ですから、もう記憶が少ないのかともおもえますが、
道中には、大湯環状列石の場所(当時は未発掘)もらいますし、
歌枕の錦木塚もあります。

もっと調べてみたいと思っております。

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